2014/10/09

便乗コラム

ブランドとは何か?


ブランドって一体何なのでしょうね。結構ながい間考えてきたつもりなのですが、いまだにスッキリしたと言えるほどの理解には達していないような気がしています。もちろん、不勉強だからというのがいちばん大きいのでしょうが・・・なかなかつかみどころのないものですね。

ブランド論の大家であるデービッド、アーカー氏によれば、「ブランドはお客様との約束である」となります。シンプルながらも、奥深く力強い定義のように感じます。そんなアーカー氏の来日講演があるということで、先日参加してきました。

この日、アーカー氏がブランド戦略において強調したのは、「ブランド・レレバンス(関係づけ)」と「ディフィケーション(差別化)」について。まずは消費者が何かを選択する際に、選択肢にあがるかどうか。選択肢にあがったときに、他の選択肢と比べて、独自の価値がある、他にない魅力があるかどうか。

消費者と製品・サービスの間に共通項がなければ、共感は生まれないが、普通すぎるものは、見向きもされない。他と異なっていなければその製品・サービスを選ぶ理由はないですが、違いすぎるものは、そもそも選択肢にも入りません。

いまやあらゆるものが世に出てすぐに陳腐化されてしまう時代です。機能的な差別化ポイント(例えば、他のどのパソコンよりも処理速度が早いという特長など)はすぐに技術的に追いつかれ、真似され、大した差別化ポイントでなくなってしまいます。そんななかで真に他社と、他の製品・サービスと、違う何かを打ち出すことができるとしたら、それは究極的にはその組織の思想であり、それを体現してきたあゆみ、ストーリーに収斂されてくるというのです。そのとおりだと感じました。

「何をやるか」よりも「なぜそれをやるのか」ということです。そのビジネスに意志はあるのか?ということでしょうか。ビジョンや理念への共感がいまの時代のブランド構築(「ブランド・レレバンス(関係づけ)」にも「ディフィケーション(差別化)」にも)にはますます欠かせないものになってきているようです。

おもしろいですね。ただ、ブランドとは何か?ということについては前提としてお話をされていたので、そこについては自分である程度考えないと仕方がなさそうです。なので、ここでもう一度「ブランドはお客様との約束である」ということに戻りたいと思います。

「わたしたちはあなたたちにこういう価値を提供します」と約束をします。約束自体は誰でもいつもでもどこででもできます。ただ、当然約束は守られなければ信頼を失います。つまり、ブランドがなくなります。ということは、宣言した約束は、当たり前のことですが、果たされ続けていかなくてはいけません。

何となく頭の整理ができてきたように思うので、続けます。つまり、ブランドとは大きく2つの要素でできていると言えそうです。ひとつは、理想を掲げ、お客様に約束をするということ。もう一つは、掲げた約束を守り通すということ。約束を守ってきた分だけ、お客様からの信頼は高くなっていく。その積み重ねがブランドをつくっていく。

「ブランド」って実体のないイメージの操作のように、どことなくうさん臭い印象をもたれがちですが、こう考えていくと、むしろちょっとした小手先のイメージ操作では変えようのない実体の反映のような気がしてきます。期間の長短はあるにしても、嘘ついてたら、いつかはばれますからね。

かなりスッキリしてきた気がしますが、時間がたてば、また「いやちょっとまてよ」となっていそうです。それくらい「ブランド」って奥深いテーマなのでしょうね。まだまだ悩み続けようと思います。

2014/10/03

わたしたちの本棚

知性を磨く「スーパーナチュラリスト」の時代 / 田坂広志著

ボクがこの本を読んでいるとウチの小林が「竹田さんもそんな新書を読むようになったらオワリですね」と、小生意気なことを言ってきた。ヤツは別にこの本の内容について難癖をつけているわけではなく、「知性とは何か、なんて命題に対して、手っ取り早く他人が考えた結論だけを手に入れようとするのは安っぽい生き方じゃないですか?」と言いたい訳だ。

この本にもちょこちょこ出てくるカント、ヘーゲル、マルクスといったお歴々のとっても難しい本をこよなく愛する変人ですからね、まあ、ヤツは。言いたいことはわかります。わかるけれど、残念ながら人生の残り時間も限られている中年オヤジとしては、この手の本でわかった気になりたい、というのが本音のところでございまして。

で、ですね、ものすごくわかった気にさせていただける本でした。世の中のさまざまな諸問題や日頃仕事通して気になっていることなんかも著者の鋭い切り口で切ってもらえると、とても良くわかるのです。ただし、文中に書いてあるとおり「知識」と「智慧」は別でして、わかった気にさせてもらった以上は、自分で鍛錬して「智慧」にしていきなさいよ、ということが肝要なわけです。

そんなわけで、この本の中でボクがビビビときた「切り口」のいくつかをアフォリズム的にご紹介します。

・・・・・・・・・・・・

野心とは、己一代で何かを成し遂げようとの願望。
志とは、己一代では成し遂げられぬほどの素晴らしき何かを、次の世代に託す祈りのこと。

・・・・・・・・・・・・

真の知性は、「戦って相手を打ち倒し勝つ」ことに価値を置くのではなく、「無用の戦いをせずに目的を達成する」ことに価値を置く。なぜなら、どのような戦略にもそこには「(部下や社員の)かけがえのない人生(の時間)」が懸けられているのだから。

・・・・・・・・・・・・

「21世紀、戦略とは最高のアートになっていく。」

・・・・・・・・・・・・

「言葉で表せる知識」が価値を失っていく時代、相対的に価値を高めていくのが「言葉で表せない智慧」である。高度情報化社会において求められるのは本来「智慧の修得法」とでも呼ぶべき「メタレベルの知性」。

・・・・・・・・・・・・

すなわち、「自分が見えている」ということ。
それは「知性」というものの原点でもある。

・・・・・・・・・・・・

ボクみたいに知性を磨く努力を怠ってその場しのぎの感覚で生きてきた人間には、短いページの中にたくさんの気づきを与えてもらえる本でした。言葉は平易だしあっという間に読めますが、読後感は「それなりの旅をしたような」ずしんとした感じになります。これも著者の本物の知性のなせるワザなのでしょう。

2014/09/19

わたしたちの本棚

Wabi-Sabi わびさびを読み解く for Artists, Designers, Poets & Philosophers / レナード・コーレン著

唐突ですが、最近“わからないもの”にすごく興味があります。もっと言うと“わからないもの”に可能性を感じるんです。わたしたちは何でもかんでも“わかりたい”、言い直すと論理的に、体系的に把握したいと思っています。そうやって、世の中のあらゆる事象を自分たちの方にたぐり寄せようとする。自分の陣地で戦った方が有利に立てるわけですし、理由が“わかっている”方が安心できる。当然です。

しかし、です。そうやって何でも“わかっている”という状態に持ち込んでいくと、新たな問題が発生します。今度は、(すでに)知ってしまったこと、つまり、取り込んでしまったことが面白くないのです。説明できるものはつまらない。わがままな話です(笑)。何でも知りたいのに、知ったら知ったで今度はつまらないと言い出す。あの子と何としてでも付き合いたいと思ってあらゆる努力をして、いざ付き合えるとなったら、何だかシラけてしまったというような感じでしょうか。

この話、マーケティングやブランディングの領域でよく語られる企業や商品・サービスの「差別化要因」みたいなものにも当てはまると思うんです。「これがこの商品の差別化ポイントだ!」「A、B、Cという3つの要因でこのサービスは競合サービスと差別化を図っているんだ!」などという会話を仕事柄よく聞いたり、したりします。が、そうやって論理的に、体系的に説明できてしまう差別化要因(=魅力)って、その時点で誰にとってもすでに知ってしまっているもの(=つまらないもの)になってしまっているのではないかと。そうやって、論理的に捉えることができたはずの魅力は掴んだと思った瞬間に手からこぼれ落ちてしまっているのではないかと。

裏を返すと、掴もうとして掴もうとして、それでもやっぱり掴みきれないようなところにこそ、本当の差別化要因、他の何物とも違う魅力が潜んでいるんじゃないか、と思ったりするわけです。

そんなことを思いながら、ふらっと立ち寄った書店で手にとったのが、わびさびとは何か?ということを解き明かそうとしている本書でした。(やっと本書の紹介にたどりつきました!)

わびさびという概念について示唆に富むさまざまな話が出てくるわけですが、今回はわたしの問題意識とつながる部分に焦点をあてて、手短にお話したいと思います。次の一文がすべてを言い表していました。

「わびさびが提示するのは、まさに解像度と微調整の問題なのである。」(P80)

「わびさびがデジタル形式のうちに存在できるか」という問題を取り扱ったところで出てきた一文。この「解像度」と「微調整」の問題が、論理的にすでに“わかってしまったもの”と“わからないもの”の違いをうまく言い当てているような気がしたんです。長くなりますが、もう少し引用します。

「デジタル形式では、わびさびが必要とする無限大の繊細さに応えることができない。以下は、その理由である。何かがデジタル化されるためには、事象の分析と「0」と「1」からなるバイナリーコードへの変換という2段階の手続きを必要とする。…(中略)…「無限大の繊細さ」(「リアルな」世界と等しい情報量)を表現するためには、文字通り無限のバイナリーコードが必要である。分析に要する時間も無限であり、記述されたイメージや物を表示するデバイスは無限の解像度を要する。…(中略)…「無限大の繊細さ」こそが「バーチャルな」世界に対する「リアルな」世界の基準なのだ。そして、わびさびが提示するのは、まさに解像度と微調整の問題なのである。」(p78-p80)

「0」と「1」からなるバイナリーコードへの変換を行う際に抜け落ちてしまった「無限大の繊細さ」。これこそが、「解像度」と「微調整」の問題であり、論理で説明しきれない“わからないもの”であり、そこにこそ他の何物とも違う魅力が潜んでいると思うのです。

著者は、デジタル化が進む世の中で「無限大の繊細さ」が希薄化の一途をたどることに警鐘を鳴らして本書を締めくくります。世の中が「0」と「1」だけで描き出せること、説明できることだらけになってしまったら、こんなつまらないことはありません。わたし自身、何でもすぐに論理立ててしまいがちなので、“わからないもの”をわからないままに魅力あるものとして受け入れることのできる人間になりたいものです。

2014/09/16

便乗コラム

「異質なものとの出会い」のもつ価値


ネットで話題になった記事を読み解きながら、自分なりの考えを述べる「便乗コラム」の時間がやってまいりました。さて、今回便乗する記事はこちら。NAVERまとめに掲載されている、北海道の小さな本屋さんに関する記事です。

【なぜ?】田舎にあるのに全国から注文が殺到する本屋さん【本好き必見】
http://matome.naver.jp/odai/2140893292978353201

この記事によると、とあるサービスをはじめてから人気に火がつき、いま全国から注文が殺到している小さな書店が北海道にあるというのです。「1万円選書」と名付けれられたこのサービス。中学生時代には図書館にある小説はほとんど読んでいて膨大な情報量を持ち合わせているという店主が1万円分のおすすめの本を送ってきてくれるのだそうです。

このサービス、おもしろいですね。とても価値のあるものだと感じました。そう思った理由は二つあります。

ひとつは、「自分で選べない」ということ。自分で本を選んで読んでいると、いつのまにか自分の知っている範囲のジャンル、著者のなかで本を選んで読むことが多くなります。すると、どうしても読書体験がタコツボ化してくるというか、似通ったものになってきます。でも、本来、本を読むという行為には、これまでの自分の経験、知識の範ちゅうにはないもの、はみ出すものに出会って自分の世界認識に位相のずれが生まれ辺りを見渡す目が変わるところにひとつ、その価値があると思うのです。つまり、「異質なもの」に触れることが大切なのだと。

普段小説しか読まない人に、その小説を読んでいるあなたにぜひ読んで欲しいビジネス書がある、みたいなことができれば、利用者にとって世界が広がる契機になりそうですよね。

一方で、どんな本を選んでよいのかがそもそもわからないという人もいると思います。誰かのアドバイスやおすすめがないと本を選びとるだけの理由を持てない。でも本は読んでみたい。そういう人には、ある程度専門家が強制的にこれを読もうと言ってくれることで、読書をする契機が生まれるのなら、それはそれですごく価値があることだとも思います。

となると、こういうサービスが成立するには、専門家が必要となります。このサービス、基本的には店主に対する専門的信頼があるから成り立っているのだと想像します。自分で選ばないのですから、選んでくれる人への信頼が不可欠ですよね。1万円も投資するわけですし。

実際にはその専門的信頼を彼がどのようにして得ているのかわからないのですが、専門家として何らかの”与え”をこれまでずっと行ってきたことによって社会的資本(ソーシャル・キャピタル)が蓄積されてきたからこそ、「本をお任せで選ぶ」ということを任せてもらえていると言えるのではないでしょうか。

「検索」して自ら能動的に選んでいくのではなく、ゆるいつながりのなかで専門家に出会い、何かを任せてみようという気になる。そういう意味においては、「1万円選書」というサービスは、非常に”ソーシャル的”なサービスだとも感じました。実際にソーシャルメディアとの相性もよさそうです。

今後も「1万円選書」のようなサービスは増えてくるような気がします。今回は、北海道の小さな書店のお話に便乗して、「異質なものとの出会い」の価値について考えてみました。

2014/09/01

代表コラム

Vol.8 若者のすべて

新橋駅前の広場では、ギターやキーボードを弾きながら自作の歌を歌い、CDを売っている人たちをよく見かけます。先日ちょうど近くで待ち合わせをしていたので耳を傾けて聴いていました。彼らの歌はおおよそ恋愛や青春特有の心の揺れを歌ったものばかり。どうせならこんなおじさんの多い場所ではなく、もっと若者が集まる場所でやればよいのにと思っていたのですが、しばらく見ているとなんとなく様子がわかってきました。

実は面白いことに、立ち止まってCDを買っていくのはほろ酔い加減のおじさんたちばかり。中にはろくに歌を聞きもしないでお金だけ払おうとする人もいます。「歌上手いね、がんばってね!」「はい、ありがとうございます!!!」若者が一曲歌い終わる毎にこんな会話が繰り返され、おじさんは千円札と引き換えにちょっとした見栄や自尊心を満たしていくわけです。

ああ、そうなっているのか。なるほど同年代の若者たちはお金も持ってない上に、歌われているテーマの当事者として内容にもシビアなのでしょう。いつしか歌そのもので共感を得ることよりも、「夢に向かって頑張る若者の姿」をおじさんたちに買ってもらう方が手っ取り早いと、そんなことに気づいてしまったのかもしれません。

表現者として作品に込めたはずの熱が、アルコールとともに夜の街に蒸発し、燃えカスと小銭に姿を変えていく。私にはその光景がなんとも寂しいものに映りました。懸命に歌う彼女の中にはまだ「後ろめたさ」が残っているのだろうか。「ずるさ」が表現者としての大切な部分を蝕んでいきやしないだろうか。「すべからく若者は王道を歩むべし」。どこかで聞いたそんな言葉を思い出します。もう既におじさんの一部となった自分ですが、それでも「ずるさ」に逃げたくはないと、日々、青臭く、自分と戦っています。頑張ろうよ。

COPYRIGHT (C) SUPER EDITION INC. ALL RIGHTS RESERVED.
Facebook 運用支援サービス